大正8年(1919年)
|
2月27日 静岡県南伊豆町一条馬込に父・善吾、母・なをの四男として生まれる。
馬込の地は、戦国時代、豊臣秀吉と戦った小田原の北条氏政の家臣、清水上野介が水軍総大将として下田城(鵜島城)を守り果敢に戦ったものの、豊臣側の謀略で城をあけわたした後、逃げのびて隠れ住んだ所ではないかと伝えられている。水軍とのかかわりをあらわすように山本家の屋号は艪八丁といい、八丁もの艪を操る船を暗示している。 兄弟は長男・巌、次男・長恵、三男・喜平、四男・本人義一、長女・次子、五男・細井正治、六男・吉平、七男・横山兵衛の七男一女。 生家は明治時代、祖父吉兵衛の代から製糸工場を営み、母なをが「製糸場のおっかさん」として多くの女工たちをたばねる大世帯の家であったが、太平洋戦争後は外国産の絹糸におされ衰退、農業を営む。現在は甥の山本剛がこの地を「一条たけのこ村」として村おこしに成功、観光化を実現している。義一は十代から絵を描き始め、独学で油絵を描き続ける。 |
---|---|
昭和13年 (1938年)
|
3月、陸軍入隊。満州国牡丹江省にて東京城独立守用歩兵第二十大隊第四中隊に入隊。
|
昭和14年 (1939年)
|
日ソ国境紛争「ノモンハン事件」に参加。
|
昭和16年 (1941年)
|
太平洋戦争勃発。3月1日除隊し、3月2日第四独立守用隊司令部配属。
|
昭和18年 (1943年)
|
退職し、新京特別市「満州生活必需品株式会社」入社。
|
昭和20年 (1945年)
|
4月米軍、沖縄上陸。1934年に満州国司法部法学校として設立され、1939年に新京法政大学となった大学夜間部に入学する。
8月、日本無条件降伏。ソ連軍による占領と日本の敗戦により、大学は解散、閉学となり、現地除隊する。敗戦後はすぐに帰国はできず、新京で豆腐を作って売り、日本人で同じ伊豆出身者の民家にかくまってもらう。そのおかげでシベリア抑留を免れることができた。
|
昭和21年 (1946年)
|
帰国。夏、牡丹江から錦州コロ島へ。引揚船で博多に着き、伊東からバスに乗り南伊豆町の生家に千円の所持金とリュックサックひとつで帰還。
|
昭和25年 (1950年)
|
警察予備隊(のちの自衛隊)に入隊。
|
昭和27年 (1952年)
|
11月 清水市(現静岡市)の料亭『橋虎』長女 佐藤妙と結婚。
|
昭和28年 (1953年)
|
10月、長女 眞理子誕生。
|
昭和32年 (1957年)
|
1月、次女 唯津子誕生。
|
昭和40年 (1965年)
|
東洋精密株式会社に招へいされ、自衛隊(市ヶ谷駐屯地)を辞す。
三島由紀夫割腹事件は義一が辞めた後の1970年の11月25日に起こるが、同僚だった総監室勤務の中村氏は三島の日本刀を素手で止めて指を落としてしまう。 東京都下保谷市(現西東京市)に移住。洋画研究所『示現会』、『光風会』に入会。 |
昭和62年 (1987年)
|
神奈川県中郡二宮町に移住。
洋画教室を開き、以後、毎年油絵による絵画展を開催する。
|
平成8年 (1996年)
|
1月14日から3泊で沖縄県八重山郡竹富島にて、風景画を制作。
|
平成15年頃(2003年イラク戦の頃)
|
満州での戦争体験を描いた百号の『噫、牡丹江よ!』を描く。
|
平成26年(2014年)
|
11月5日 95歳にて天寿を全うする。戒名『画眞義照居士』、神奈川県大磯町の菩提寺に眠る。
|